明日のむら 村が消えゆく中で

2006年01月04日 朝日新聞徳島版より



「定職はないが、毎日が忙しい」と語る市 岡日出夫さん。山歩きのガイドも務める=東祖谷山村釣井で

3月に誕生する三好市から東祖谷山村を独立させ、新たな村 をつくります――。そんな「独立計画」を一部の村民たちが練っている。と 言っても、あくまでバーチャル(仮想)での話だ。


 中心になっているのは「自分は過疎化 へ の加害者だった」と言う同村今井の市岡日出夫さん(58)だ。

  市岡さんは東祖谷山村生まれ。65年、高校卒業とともに、大学 進学で関東 へ。「都会へのあこがれ」もあり、村へ戻るつもりはなく、そ の後は千葉県の郵便局に就職した。村へはお盆か、正月か、年1回帰ればいいくらい。便利な都会暮らしに、村のことを顧みる機会もほとんどなかった。

 91年夏、集落での同窓会に出席し、同席した郷土史研究家の言葉 にはっとさ せられた。

 「ここ今井地区は村でもかなり早く過疎が進んだ。この地を去った 人は先見の 明があった」

 「先見の明」という言葉が突き刺さった。村を出た時、13軒だっ た民家は 3、4軒に減っていた。「こうなった責任の一端は自分にもあ る。いま戻らないと、古里が消滅する。それでいいのか」。自問した。93年12月に郵便局を退職し、Uターンした。

 実家の休耕田に野菜を植え、山の中に住んだ。春の風が薫り出す と、山のふも とから徐々に木々が芽吹きだす。軒先でミソサザエの甲高い さえずりが響き、山をこだまする。真夏の日差しが照りつけると、ヒグラシが1匹、また1匹と鳴き始め、波が一斉に押し寄せるような大合唱が始まる。季節を 肌身で感じることができ、初めて自分の生まれ故郷の良さを知った。

 しかし、しだいに、故郷が姿を変えていることが気になりだした。 「このまま 放っておけば、再び自分は加害者になる」と思った。友人に 声を掛けて97年、村おこしグループ「てんごの会」を立ち上げた。「てんご」は祖谷の方言で「余計なこと、おせっかいなことをする」という意味。「他人任 せではなく、自分たちが何かやろう」との思いで名付けた。

 村の暮らしを楽しむのを目的に、子ども向けの自然体験教室を開い たり、美化 運動を進めたり。活動を紹介する「てんご新聞」も月に1、 2回発行。執筆から印刷まで自分でする。当初の30部から、現在は村内外に140部発行し、昨秋には第100号を数えた。

 その仲間たちと一杯やりながら町村合併のことが話題になったこと があった。 具体的な合併計画が進む04年秋。「地元への愛着が薄れる のでは」「学校や病院などあらゆるものが池田周辺に集まる」「ますます過疎が進むのでは」――。マイナス面ばかり出てきた。そして市岡さんが言い出した。 「この際だから、いっそ独立しようか」。みんなが賛同した。

 てんご新聞やチラシで村内外から参加を募った。条件は「祖谷を愛 し、村に思 いを持っていること」。約30人が集まり05年6月、準備 会が発足。毎月会合を開き、議論を続けている。

 具体的なことは議論中だが、市岡さんはこんな風に考えている。方 言を使った 演劇や郷土料理の教室など様々なイベントを自主的に開く。 準備段階から協力しあうことで、村の良さだった人と人とのきずなを残していく。そんな「村人」たちがこの地を大切に守っていく。

 昨年末の国勢調査速報では、00〜05年の人口減少率は東、西の 祖谷山村は いずれも16%台と、全国の町村で8、9位だった。

 でも「独立準備」を進める市岡さんたちは元気だ。 「いろんな人 がここを好んで住み、生き生きと、誇りを持てる村に」。そんな願いを込 め、村名は「活彩(かっさい)祖谷村」と決まった。

inserted by FC2 system